昭和四十九年十二月十一日 朝の御理解
御理解 第七十五節 「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感に かなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ」
自分で傷付けておるとも殺しておるとも、気付かないなりに、人を傷つけたり又は人の心をいわば殺したり、しておる様なことがあります。
形の上で傷付けたり、殺したりは、ここにもあります様にお上があってそれぞれの、お仕置きにあう、けれども心で殺すのが重い罪じゃと仰せられる様に、そういう人の心をいつも傷付けたり、又殺したり、しておる人はおかげになりませんですね。
やはりその神が見ておるとおっしゃる。その反対の結果になって来るのじゃないでしょうか。結局重い罪ぞとおっしゃる。その罪を受けることになるのじゃないでしょうか。
お道の信心では罪とか罰とかということを、申しませんけれども、この七十五節に、この様な風に心で殺すのが重い罪じゃということ、と言っておられますことは、そういう人の心を傷付ける様な、性質とでも申しましょうかね、だからその人達はいつもやはり人から傷つけられておる、人からめちゃめちゃに、その心を傷付けられ、いうならさいなまれておるです。
かというてなら、そういう人達が、そういう例えば、性格の人達がです、いけないというのじゃない。それは例えば、罪ではないのですから、いうならそういう本当に、自分がおりますと、家の中が何とはなしに穏やかではない。いうならば、いつもその人を中心にして人間関係がごちゃごちゃしておるという様な人達ですね。
だからそういう例えば人達がです、ひとたび自分が、おるところには必ず、人間問題、人間関係が、やヽこしうなって来る。
そういうもとが、自分にあるんだと気付かせて頂いて、本気で例えば、ここの上野先生じゃないですけれども、[白露をこぼさぬ、秋のうねりかな]と言った様なところに、本気で気をつける。そういう人達は、おかげは受けられない。いつも自分がおるために、人間関係がやヽこしうなったり、難しうなったり、いつも例えば心の争いがあったり、心だけじゃない形の争いがあったりする。そこでその人達が、翻然と気付かせてもらってです、だから神様の罰というのではなくて、お気付けだと思うですね。そういう人達。
私は思うのに、あの難儀な問題を、人間関係でなさっておる人はね、その難儀な問題をその人が抱えておるのではなくてです、難儀な問題を醸す内容をその人が持っとる。これは間違いないです。家の嫁がとか、家の姑親がとか、人間関係の悲しい問題がいろいろありますよ。けれども、そういう例えば、苦しい思いということは、もうすでに傷付けたり、傷付けられたりしている証拠ですから、自分の持っておる内容をです、改めない限り、いつまでたっても、その難儀からは、解放されることは出来ません。
いうならば気の強い人、いわゆる根性がしっかりしている人。だからそれは、よいことであり、又はそういう方達の、性格の方達の場合はです、いわゆる様々な人間関係において、問題があります。
恨むとか、恨まれるとか、傷付けるとか、傷付けられたとか、そこでそういう人達に対する。では、心で殺すのが重い罪じゃとおっしゃる。その神様が見ておいでですから、その人も決して楽にはして下さらん。
神様が、その人も、いつも傷付いておる。人も傷付けておるかわりに、私はある昔、北野の教会に話しに行っている時分に、ある方のお伺いがありました。中々やり手ではあるし、いわゆるもの言い手、中々雄弁でもあるし、ところがその人のために、いつも町内ががたがたするのです。
自分でそれとは気が付いてない。そのことを私はお願いさして頂いとりましたら、沢山のビールを飲むコップがありましょう薄い。あのコップの一つが浮かび上がって、他のガラスにガチャガチャガチャ外のコップを割ってしまうところを頂くのです。
そして割ってしまっている。自分のコップもコナゴナに割れてしまった。ところを頂いた。人を傷付けておること、けどやりこめた後には、自分自身がやりこめられておるということ。それは神様見ておいでだから、人を傷つけるから又傷付けられて、苦しい思いしなければならぬのです。
それかと言って、あの人ばかりは毒にもならにゃ薬にもならんという性格の人もありますよね。一つも障らん、障らんけどもそのかわり大して役にも立たんといった様な人もあります。ならそういう人達はつまらんかというと、そういう人達がです、一度信心のみ教えを頂いて、段々有り難うならせて頂く事によって、誰だって同じ、神様がおかげは一様に下さるのです。
昨日、御本部から帰りの汽車の中で、私はグリーン車に乗せて頂きましたから、ガラ空きでした。それで次の箱に乗っておる他外の先生方が、何人も訪ねて見えて、いろいろと合楽の信心を聞いて下さるから、まあ示現活動を一生懸命さして頂いたその中にです、本郷の弟さんの安武秀信先生、それから下関の佐藤寛雄先生、この二人がやって参りましてから、親先生、私は本当に、全然いわば手続きも違えば、安武先生はいわば甘木の分家に当たられる方、甘木関係、佐藤先生は、いわゆる本部でも、佐藤家といえば、いつも本部の中心に居られる、ところの家柄のお方、佐藤宿老の曾孫にあたられる方ですから。
ですから合楽とは全然関係のないところですけど、ここにもよくお見えになりますが、合楽に参りますとね、何とはなしに落ち付いてしまいます。先生の傍らにおると、何か急ぎの用があっても、何か口実を設けてでも、ゆっくりしたい様な気が致します。
どういう訳でしょうか、と言う訳です。そりゃ私が馬鹿じゃけんじゃろうと私が申しました。そりゃ様々な先生方があります。椛目時代から思うてみると、○○教会の先生という方達が見えられます。
この方はいつも来るたびに、お酒を飲むために、当時の椛目に来よると、ウイスキー大瓶一本一人でひっくり返してからぐでんぐでんになるという先生がある。ありますよ、初めから、こちらが結局馬鹿にされておるのでしょうけれども、馬鹿にされてもね、飲みたい人には呑ませたがよい、食べたい人には食べさせたがよい。
けどそういう例えば、何と言うか、私が気張った人間であるとか、シャンとしとる。中々寄り付き難いでしょうけれども、何とはなしに馬鹿のごとしとりますから、皆がより付き良いと言うのが、傍らにおっても気兼ねなしに、ゆっくりしたいものが出来るのじゃないかと。
まあ私が馬鹿んごつしとるからじゃろうねと言って、まあお話をした事です。けれどもこれは馬鹿という意味じゃない。馬鹿のごとしとるとです。もうはっきり見えすいて、いろいろな事があります。けれどもです、いうなら馬鹿と阿呆で道を開けということは、どういうことかというと、私自身が助かっておるということなんです。私自身がいつも、おかげを頂いて有り難いと思うておるということです。
私は今日この御理解を頂きましたから、引出しから、これが出て来た。これはもう一月位前に頂いた御理解でしょうか、常楽という御理解を頂きました。常に楽というのです。楽と歓びは命本然の状態である。どの様な場合にも常に幸福感に満ちる生活こそ、信心者の日々でなからなければならない。
信心さして頂く者の日々が、こうであるのでなければならないというのである。日々が幸福感に満ちておることが、私は馬鹿んごとなるというのじゃないでしょうかと、こう思うです。
馬鹿じゃないです。馬鹿と阿呆で道をひらけというても、本当にいう馬鹿というのじゃないです。いわゆる馬鹿んごとなれるというのである。あんな事言われても気に障らんのだろうか、あんなことされても一つも自分の心が傷付けられるということがない。と同時にまた人を傷付けることもない勿論、人を殺すこともない、それは常楽の世界である。
自分にいつも心の中に、有り難いものを感じておる。常に幸福感に満ちておる。だからそういう生活を目指すということが、信心者の目指しであり、また信心者の生活でなければ、ならないというのである。
ですから今、私が申します様に、性格的に毒にも薬にもならん様な人もあるかと思うとです、役には立つけれども、中々あまりチンと言えばカンと言う様で、人障りがわるいとか、人の心を傷付ける。その人がおるところには、いつも人間問題が醸されとるとか、そのために本人も苦しんどりゃ人も苦しんどるといった様なね、だからそれがいけないのじゃない。そこにゃ神様が、ここには罰という言葉を使っとられますけれども、罰ではなくて、そういう人達も、救わねばおかんという働きがです、周囲の人達もやはり傷付いて、傷付けられて、その苦しみからです、逃れるために、本気で馬鹿んごとなれるということ本気で常楽の世界を目指せよという、神様のお気付けだということになる。 罰じゃない。上野先生が頂いとります様に、それこそ[白露をこぼさぬ秋のうねりかな]という程しのいうなら、心がけとでも申しましょうか、人にコリを積ませちゃならん、また自分自身も積んじゃならん、人を傷付けちゃならん、又は自分も傷付いてはならない。そこでそれには、どうあらねばならないかというとです。いつも神様を心の中に頂き続ける。いうならば白露をも、コボさぬ位の精進が必要だと。そこに秋のうねりが約束されるのである。収穫が約束されるのである。そこに常楽の世界がある。
私共はおかげを目指すと、申しますけども、成るほどおかげを目指さなければなりません。おかげを頂く人は、お金のお繰り合わせも頂かねばなりません。不健康の人はどうでも健康のおかげを頂かねばなりません。人間関係で悩んでいる人はです、本当に人間関係がスムーズにならせてもらうて、自他共に楽にならねばいけません。
けれども私共、信心さして頂いておる信心のよろこび、いわゆる幸福感に満ちた生活、ほんに勿体ないな、有り難いなと、そこには人を傷付けるということでなくてです、人を生かす心が生まれて参ります。
昨日若先生方が、申します様に、親先生の傍らにおると何かなしにゆっくりしたい心がまあそれは、お世辞であると致しましてもです。もしそういう私は中心になれる人物になったらです、人を生かすのです。
自分自身も生きておる。人も生かすことが出来る。その持っておる喜びを、人にも潤いその潤いの中に、おかげを頂き頂かせてもらえれる、世界がひらけて来るのです。
まずは自分の家庭の中から、勿論自分の心の中から、そして自分の家庭、自分の職場、私がおる限りです。そこにいうならば、春風駘蕩と申しますかね、うらヽかな春の日和にも似た様な、心の状態の人が中心におりますとです。その雰囲気がそこの周辺が、そういう穏やかな、状態が生まれて来るのです。そこにはどういうことになるかというと、人を傷付けたり、心で殺したりするのは、神が見ておる。それが罪になる。それが皆さんの各自の苦しみになって来る。けれどもそれとは反対に、生かすこと、それとは反対に助けることの出来れる、心の状態は、これに神様が御褒美を下さらない筈はないのです。
私達が喜びたい、本当にそういう極楽の世界に住みたい。これは私共命本然のそれは要求というか、それは私共の願い、それは私共の命なのです。そういう願いを持っておることは人間誰しもあるのです。
そういう喜びにも触れたいと、こい願う心があるのにも係わらず、いつも傷付けたり、傷付けられたりの世界に住んでおるということにです。自分自身が翻然として、悟らしてもらうて、いよいよ信心の有り難い常楽の心を、頂かなければならないということになります。
信心はいわゆる、自他共に、生かして行けれる道であり、そういう道を体得さして頂くのである。
神が覧ておると仰せられる。だからこれは、そういう人を傷付けたり、殺したりするのも見ておられるのですから、心が傷付いておる人を癒してやる。
もう今日は心が真っ暗である。今日はもう心が、いうならば痛んでおる。そういう痛んだり、傷付いたりした人をです、癒してあげれる程しの、心ということになりますときにです、やはりそれも神様が覧ておいでである。
それぞれの性格を持っておりますから、生まれつき穏やかな人もあるし、そうでない人もあります。けれども、どちらがどうということではありません。どちらも同じなんです。問題は信心に、お互いが基付かせて頂いてです、信心によってです。喜びをそこなわない、喜びが頂き続けれる、道を体得して行くということが信心である。
常に自分の心が、いわゆる常楽である。いつも信心さして頂いておる者は幸福感に満ち溢れておる様な、生活を願わなければならん。その幸福感に満ち溢れておる心の状態こそ、傷をいやし、或いは明るいものを周囲に配ることができる。痛んでおる人をいやして上げることが出来る。
私共が知らず知らずの中にです、人にコリをつませる。人の心に傷付けたり、又は人を滅茶滅茶に殺してしまう様な事があってはいないか、自分の周囲に、人間関係に、難しい人間関係があるとするならです。自分自身も一つ大いに、反省さして頂いて、常楽の心を頂いて、おかげを頂いて行かねばいかんと思いますね。どうぞ。